以前、ブログにて
乙姫(伊根町の宇良神社)、網野町、浦島神社。
羽衣天女(乙女神社)。
穴穂部間人(あなほべはしうど)皇女(間人海岸 立岩)。
細川ガラシヤ(味土野ガラシヤ屋敷跡)。
小野小町(小町の里公園 妙性寺)。
静御前(静神社)と丹後七姫ゆかりの地を探索してきましたが、今回、安寿塚とその近辺を探索してきました。
安寿と厨子王
「越後の春日を経て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている。母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。」(森鴎外「山椒大夫」より)
陰謀によって西国に流された父のために、安寿と厨子王、母、乳母の4人は、京へ旅立つ。越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、姉、弟が丹後に、母、乳母は佐渡に売られてしまう。丹後の由良で山椒大夫に買い取られた2人は、つらい労働を強いられる。安寿は厨子王を密かに逃がすが、ひどい拷問にあい、命を落とす。一方厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着く。帝から父の許し状をもらい、国守となった厨子王は、長い苦難の末母と再会する。
安寿姫塚
安寿と厨子王は三庄太夫の仕打ちに耐えかねて、屋敷からぬけだし、和江のカクレ谷にのがれた。ここで二人は別れの水杯を交わし、近くの国分寺に逃げ込み救いを求めた。国分寺の和尚に厨子王の身をあずけて、安寿は佐渡にいるだろう母を求めて旅立った。和江の村人の助けを得て川向うの中山に渡ったのであるが、中山・下東の村界の峠で疲労と空腹にたえかねて、遂に悲運の最後をとげた。下東の村人達はこれにいたく心を打たれ、その亡骸を山里の奥に手厚く葬り祀ったと伝えられている。これが安寿姫家塚の発祥である。
国分寺跡、ここで二人は別れの水杯を交わし、近くの国分寺に逃げ込み救いを求めた。
中山・下東の村界の峠で疲労と空腹にたえかねて、遂に悲運の最後をとげたといわれる飢坂(かつえざか)。
途中「もみじ公園」から由良川を撮影。
山椒(庄)大夫屋敷跡。
汐汲岩、ここの岩の上で姉の安寿が「汐汲み」をやらされていたそうです。
お祝い、新生活応援のはんこの川口
丹後にはええもん、うまいもんがいっぱい。
あじわいのある古民家や宿をはじめ、牧場、バーベキュースポット、
19世紀の味の店、ボート免許が取れる場所など盛りだくさん。
鯛めし、京野菜などのごはんも充実。手摘みのブルーベリーも要チェックです。
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